独身時代の写真が見つからないので、子育て中の写真を掲載します。母と長女、聖子。
福岡学芸大学(現・福岡教育大学)を中退し、花嫁修行をしながら、
小学生に週に何回かピアノを教えていた20代半ば、母に試練が訪れます。
盲腸の手術後の傷が癒着し、足掛け4年間も入退院を繰り返すこととなったのです。
傷を何度も縫い直し、今度こそ治ったと思ったら、数か月後にはまた悪化。
同級生は次々に結婚していきます。
仕事をしたくても、体を大事にしなければ、やっとふさがった傷がいつ開くかわかりません・・・。
祖母は、そんな母のために毎日裸足でお百度をふむことを日課にし、
東京の病院に入院していた時には、“奥村の叔父様、叔母様”が3日と空けずにお見舞いに訪れ、
元気づけてくださったということです。
母と次女、章子。
生来明るい気性の母でしたが、さすがにそのころは病院の窓から空を見上げても、
明るい未来を夢見ることすらできなかったと言います。
そのころの母を支えた言葉があります。それは、
『神の技は時にかなって、麗し。』
いう聖書に言葉。今は苦しいけれど、これはこれで今の自分にとって必要なこと。
でもいつか、自分を生かせる時が来るはずという想いが、母を支えたのでした。
また母の慰めになったのが読書と短歌、そしてフランス刺繍です。
中学生時代から始めた刺繍は、その頃にはプロの域に達し、クッション、テーブルクロス、
ピアノカバー・・・次々に作品を作っては、自室に飾りました。
今思えば、生まれ持った美的センスやバランス感覚に磨きをかけ、
母がインテリアへの興味や、創造する喜びを育んだ時代だったのかもしれません。
母と二人の子供たち。
また、退院中には、母校福岡雙葉の同窓会副会長を務め、企画立案しては
後輩たちをまとめて準備を進め、当日素晴らしい会を催すという、
演出、プロデュースの楽しさを知ったのもそのころでした。
そして、傷がようやく癒えてきた30歳を目前に、
当時福岡で、新進気鋭のピアニストとして名をはせていた、原田吉雄との出会いがありました。
エレガントライフアカデミー代表
原田 章子 Harada Shoko
福岡市に生まれる。福岡雙葉小学校、中学校、高等学校卒業。白百合女子大学文学部、国文学科卒業。
90年代よりテーブルアートを志し、フランス留学。料理学校『コルドン・ブルー』、『リッツ・エスコフィエ』で料理と製菓を学ぶ。公爵夫人マリー・ブランシュ・ドゥ・ブロイユに師事し、フランス食文化史を学ぶ。パリの生花店『コム・オ・ジャルダン』で修業。その後も定期的に渡仏し、同店で研修を受ける。
2015年、母、原田治子逝去に際し、エレガントライフアカデミーの代表に就任。当Blogの執筆も手掛ける。