2016.2.18

原田 治子 Story ⑭ 『音楽人生、順風満帆 一転 八方ふさがり』

エレガントライフアカデミー創始者、食卓演出家・原田治子の一生の物語です。

バックナンバー①~⑬はコチラ→原田治子Storyにてお読みいただけます。

 

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2年間のドイツ留学を終え、音楽学校の主任に復帰した父は、

教育者としての仕事の他、洋行帰りという肩書を活かし、桐朋音楽学園同級生との

トリオ演奏会や、ピアノ連弾演奏会など演奏家としての活動を本格的にスタート。

若手ピアニストの育成を目的とした『福岡ピアニストグループ』を立ち上げ、

福岡のみならず九州の音楽会をリードする存在になります。





父の留学からの帰国を、母は着物で出迎えた。次女と初対面の父。

 

ところが、それらすべての計画を一緒に練り、サポートというより

むしろ主導してきた母に、思いもよらないことが起こります。

父が高校時代からの恩師とたもとを分かち、音楽学校の主任の座を辞してしまったのです。

この件は、我が家では長らく禁句扱いになっており、幼かった私も詳細を知りませんでした。

この記事を書くにあたり、おそるおそる父に理由を尋ねたところ、

「とくに理由はない。結局、僕のわがままからだったと思う。」

・・・調子が良く行き過ぎて、高慢になってしまっていたのでした。





ヴァイオリン、チェロ、ピアノのトリオ演奏会。桐朋の同級生と。

 

これをきっかけに、それまで順風満帆だった父の音楽家としての人生に、急激に

暗雲が立ち込めていきます。生徒の離脱、トリオの解散、マスコミにもそっぽを向かれ、

“飛ぶ鳥を落とす勢い”から一転、”八方ふさがり”なってしまったのです…。

なんということでしょう…!幼い二人の娘を抱え、唯一の安定収入も途絶え、蓄えもなく、

留学費用を立替えてくれた実家には、もう援助を頼めません…。

ところが、こういう時にこそ、奮い立つのが、原田治子なのです。

 

『この人のわがままは結婚前からわかっていたこと、不満をいっても始まらないわ。

前進あるのみ。今だからできることをすればいいのよ!』





母の目標の一つオーケストラとの共演も、その後実現することとなる。

 

母は”音楽家の妻としての目標”その②、

『ピアノリサイタルをする』という目標を父に持たせます。

ピアノのリサイタルは2時間独演かつ暗譜なので、大変な練習が必要となりますが、

幸か不幸か、時間はたっぷりあります。

来る日も来る日も父は朝から晩までピアノをさらい、母は規則正しい生活でそれを支えつつ、

演奏会をする上で必要な、ピアノを弾く以外のすべてのことを一人でこなしました。

会場との交渉、チケット・チラシの印刷の打ち合わせ、関係者へのあいさつ、そして

チケットをプレイガイドや音楽教室、ピアノの先生宅に置いてもらうよう、頼んで回りました。

 

はじめはいろいろなうわさが出回って、相手にしてもらえないことも多く、

真夏の暑いさなか、冷房のない車で方々を回って、頭を下げ続けたといいます。

けれども、2回、3回と回を重ねるうちに『お預かりしましょうか?』というお申し出があり、

しだいに『原田吉雄 ピアノリサイタル』は福岡の音楽シーンの年中行事として、

認められるようになっていったのです。





『原田吉雄 ピアノリサイタル』は、原田治子のマネージメントによって、広く認知されるようになった。

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Writer


エレガントライフアカデミー代表
原田 章子 Harada Shoko


福岡市に生まれる。福岡雙葉小学校、中学校、高等学校卒業。白百合女子大学文学部、国文学科卒業。

90年代よりテーブルアートを志し、フランス留学。料理学校『コルドン・ブルー』、『リッツ・エスコフィエ』で料理と製菓を学ぶ。公爵夫人マリー・ブランシュ・ドゥ・ブロイユに師事し、フランス食文化史を学ぶ。パリの生花店『コム・オ・ジャルダン』で修業。その後も定期的に渡仏し、同店で研修を受ける。

2015年、母、原田治子逝去に際し、エレガントライフアカデミーの代表に就任。当Blogの執筆も手掛ける。