エレガントライフアカデミー創始者、食卓演出家・原田治子の一生の物語です。
バックナンバー①~⑭はコチラ→原田治子Storyにてお読みいただけます。
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帰国後、父は演奏活動を本格化させる一方で、留学先であったドイツ、
フライブルグ音楽大学での恩師、エデット・ピヒト=アンセンフェルト氏を招き、
福岡でリサイタルを開催することを思い付きます。
日程を調節し、会場を借り、滞在中のホテルを予約。そしてチケットをさばく。
父一人のマネージメントだけでも大変なのに、
母は父の師のプロデュースまで手掛けることになったのです。
しかも来日が近づき、詳細を詰めていく中で、母にとって誤算が発生します。
大変熱心な演奏家であるピヒト女史は、一日たりとも指を休めることを潔しとせず、
演奏会のための福岡滞在約一週間は、宿泊こそホテルですが、
朝食をホテルでとったのち朝8時ごろから、原田家にいらっしゃってピアノをお弾きになり、
夜10時過ぎにホテルに帰るという生活をなさるというのです。
留学時代の後半をピヒト家に下宿させてもらいながら、指導を受けた父は、
当然のように、『家でもてなしてね。ドイツではそうするよ。』と言い放ち、
母はなんとランチ、ティータイム、ディナーの一日三回のもてなしを、
一週間つづけることになったのです。
ご滞在期間中、1~2回のティータイムのおもてなしを…と考えていた母にとっては、
青天の霹靂!
しかも相手は世界一几帳面と名高いドイツ夫人であり、完璧主義なピアニストです。
逃げだしたい気持ちを抑え、思い替えることにしました。
『とんでもなく大変そうだけど、音楽家の妻としての晴れ舞台といえるかもしれない。
出来る限りのことをさせていただこう。』
まず今できるお料理の中から、先生のお口に合いそうなものをリストアップ。
フルコースでメニューを組み、それにふさわしい食器、テーブルクロス類を選び、
テーブルコーディネート。一日中ピアノをお弾きになる先生の気分転換になればと、
もてなしごとにテーブルクロスから替えるようにしたので、
足らないものは実家から借りたり、購入したりする必要がありました。
メンバーも、父一人ではドイツ語で間が持たない心配があったので、
父の音楽仲間や教会の神父様など、ドイツ語が出来る方をあたり、同席を依頼。
知り合い、友人、実家の父母など総動員でなんとか段取りをつけ、怒涛のように当日を迎え、
もてなしにつぐ、もてなしに寝る間もないほどの忙しさ…。さすがの母も
一日が終わり先生がホテルにお帰りになると、倒れ込みたいほど疲労感に襲われましたが、
明日もあさっても、一日三回のもてなしが待っているのです。
しかもそれだけ大変なことをしているのに、
食事の間、ドイツ語が出来ない母は、会話には入ることはできず、
さらにピアノの練習中やレッスン中に音楽室にいると、
父から「なに?早く出ていって。」と目で退却を促されるという始末…。
『まるでピアノやドイツ語ができないと、人間じゃないって態度ね!
いいわ!私は食卓の上で、リサイタル(独奏会)をするのだから!』
そんな母の気持ちを知ってか、知らずか、ピヒト先生は帰国する前の晩、
父にこう告げたのです。
『ハルコは素晴らしい女性ね。一週間天国のようなもてなしを受けたわ。
今度来るときは日本語を勉強して、ハルコと歌うように話したいわ!』
それからピヒト先生は日本各地に呼ばれるようになり、
20年間にわたり、2年に一回のペースで来日。福岡でもたびたびリサイタルを開催。
そのたびに原田家でピアノをさらうのを日課になさいました。
最後の来日は1996年、最後まで日本語はお話しになりませんでしたが、
もう母とピヒト先生との間に、言葉など必要ありませんでした。
エレガントライフアカデミー代表
原田 章子 Harada Shoko
福岡市に生まれる。福岡雙葉小学校、中学校、高等学校卒業。白百合女子大学文学部、国文学科卒業。
90年代よりテーブルアートを志し、フランス留学。料理学校『コルドン・ブルー』、『リッツ・エスコフィエ』で料理と製菓を学ぶ。公爵夫人マリー・ブランシュ・ドゥ・ブロイユに師事し、フランス食文化史を学ぶ。パリの生花店『コム・オ・ジャルダン』で修業。その後も定期的に渡仏し、同店で研修を受ける。
2015年、母、原田治子逝去に際し、エレガントライフアカデミーの代表に就任。当Blogの執筆も手掛ける。