エレガントライフアカデミー創始者、食卓演出家・原田治子の一生の物語です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰国後、父は演奏活動を本格化させる一方で、留学先であったドイツ、
フライブルグ音楽大学での恩師、エデット・ピヒト=アンセンフェルト氏を招き、
福岡でリサイタルを開催することを思い付きます。
日程を調節し、会場を借り、滞在中のホテルを予約。そしてチケットをさばく。
父一人のマネージメントだけでも大変なのに、
母は父の師のプロデュースまで手掛けることになったのです。
しかも来日が近づき、詳細を詰めていく中で、母にとって誤算が発生します。
大変熱心な演奏家であるピヒト女史は、一日たりとも指を休めることを潔しとせず、
演奏会のための福岡滞在約一週間は、宿泊こそホテルですが、
朝食をホテルでとったのち朝8時ごろから、原田家にいらっしゃってピアノをお弾きになり、
夜10時過ぎにホテルに帰るという生活をなさるというのです。
留学時代の後半をピヒト家に下宿させてもらいながら、指導を受けた父は、
当然のように、『家でもてなしてね。ドイツではそうするよ。』と言い放ち、
母はなんとランチ、ティータイム、ディナーの一日三回のもてなしを、
一週間つづけることになったのです。
ご滞在期間中、1~2回のティータイムのおもてなしを…と考えていた母にとっては、
青天の霹靂!
しかも相手は世界一几帳面と名高いドイツ夫人であり、完璧主義なピアニストです。
逃げだしたい気持ちを抑え、思い替えることにしました。
『とんでもなく大変そうだけど、音楽家の妻としての晴れ舞台といえるかもしれない。
出来る限りのことをさせていただこう。』
まず今できるお料理の中から、先生のお口に合いそうなものをリストアップ。
フルコースでメニューを組み、それにふさわしい食器、テーブルクロス類を選び、
テーブルコーディネート。一日中ピアノをお弾きになる先生の気分転換になればと、
もてなしごとにテーブルクロスから替えるようにしたので、
足らないものは実家から借りたり、購入したりする必要がありました。
メンバーも、父一人ではドイツ語で間が持たない心配があったので、
父の音楽仲間や教会の神父様など、ドイツ語が出来る方をあたり、同席を依頼。
知り合い、友人、実家の父母など総動員でなんとか段取りをつけ、怒涛のように当日を迎え、
もてなしにつぐ、もてなしに寝る間もないほどの忙しさ…。さすがの母も
一日が終わり先生がホテルにお帰りになると、倒れ込みたいほど疲労感に襲われましたが、
明日もあさっても、一日三回のもてなしが待っているのです。
しかもそれだけ大変なことをしているのに、
食事の間、ドイツ語が出来ない母は、会話には入ることはできず、
さらにピアノの練習中やレッスン中に音楽室にいると、
父から「なに?早く出ていって。」と目で退却を促されるという始末…。
『まるでピアノやドイツ語ができないと、人間じゃないって態度ね!
いいわ!私は食卓の上で、リサイタル(独奏会)をするのだから!』
そんな母の気持ちを知ってか、知らずか、ピヒト先生は帰国する前の晩、
父にこう告げたのです。
『ハルコは素晴らしい女性ね。一週間天国のようなもてなしを受けたわ。
今度来るときは日本語を勉強して、ハルコと歌うように話したいわ!』
それからピヒト先生は日本各地に呼ばれるようになり、
20年間にわたり、2年に一回のペースで来日。福岡でもたびたびリサイタルを開催。
そのたびに原田家でピアノをさらうのを日課になさいました。
最後の来日は1996年、最後まで日本語はお話しになりませんでしたが、
もう母とピヒト先生との間に、言葉など必要ありませんでした。
いいね!の代わりにコチラ↓をクリック!10位以内キープ!お世話になっております。

にほんブログ村
初めての方へ・・・コチラ↑クリックして頂くと、このブログの順位が上がります。
お客様はいったんブログランキングサイトへ飛びますが戻ってきてくださってもいいですし、
他のブロガー様の素敵なブログをご覧になることもお出来になります♪ ご協力よろしくお願いいたします。
(ひとつのブラウザからは一日一回しかカウントされません。PC一回、スマホ1回はOK!)